犬養毅  「五・一五事件」  (岡山・美作の秘書役の実家で犬養毅の掛け軸を確認)

犬養毅 元首相
昭和7(1932)年の「五・一五事件」で凶弾に倒れた岡山市出身の犬養毅首相(1855~1932年)が事件直前に腹心の部下に贈った掛け軸が美作市で確認された。犬養は「木堂」の号で書をたしなみ、掛け軸は当時の不穏な空気な中で、心境を書いたとみられる。83回目となる15日を前に注目されている。

 掛け軸は美作市田原の大学非常勤職員、山下亨さん(66)方で保管。山下さんの祖父の諒一氏(1895~1956年)は元・旧江見村議で、20代から犬養と親交を深めており、地元の調整役を務め、犬養の首相就任後は官邸で秘書業務にも当たった。

 昭和7年5月15日、犬養は青年将校に銃撃され「話せばわかる」の言葉を残して最期を遂げた。諒一氏の話では、事件の約1週間前に諒一氏を帰省させる際、犬養は愛用の茶器一式を「もう私には不要。君が使え」と譲った。山下さんは「祖父も嫌な胸騒ぎを感じていたため、訃報を聞き『やはり、ついに…』の心境だったそうだ」と話す。掛け軸もこの時期に書かれたというが、落款(らっかん)がなかったため、押印して後日、贈られる予定だった。掛け軸はその後、遺品を整理中の犬養の遺族が諒一氏への宛名に気付き、同10年4月、届けられた。

 山下さんは総務省を退官後、平成23年に美作市に帰郷。「時間的ゆとりができ、祖父の生誕120周年にあわせて、家に所蔵する犬養コレクション(十数点)を検証したい」と研究を始めた。

 掛け軸の文字は「世路険艱吾人錬心境也(せいろのけんかんはごじんれんしんのきょうなり)」「世情冷暖吾人忍性之地也(せいじょうのれいだんはごじんにんせいのちなり)」「世事顛倒吾人修業之資也(せじてんとうはごじんしゅうぎょうのしなり)」。

 山下さんは「『険しい世のなかだ。自分を改めて錬磨し、堪え忍んでいく』と読める。覚悟のうえで総理に就任された犬養先生だが、日増しに高まる不穏な世情にいよいよ腹をくくった。それでも命ある限りは何があっても信念を貫くとの決意では」と説く。

 犬養を顕彰する「犬養木堂記念館」(岡山市北区)は「晩年の犬養作品は少なく、書かれた時期を克明に証明する資料があれば、実に有意義なものとなる」と関心を寄せる。山下さんは「当時の書簡なども探し出し、今後もしのんでいきたい」と述べた。