「岡山空襲」生々しく 岡山シティミュージアム、当時の様子書いた便箋初公開
戦後70年

昭和20(1945)年6月29日にあった「岡山空襲」の翌30日、市内の保険会社営業所長が書いた報告書が発見され、岡山シティミュージアム(同市北区)で開催中の企画展「岡山戦災の記録と写真展」で公開されている。「泥水にまみれ九死に一生を得たり」など空襲直後の生々しい記憶が記されている。7月5日まで。

 岡山空襲は米軍による大規模な空襲で、岡山市街地の63%を焼失し、少なくとも1700人以上が亡くなった。今回、初めて公開された報告書は「大阪住友海上火災保険株式会社資料」。岡山市が今年4月、古書店から購入した。同社の岡山営業所長から広島出張所長にあてた報告書で、便箋(びんせん)5枚に書かれている。

 空襲について「警報無き奇襲なり」と表現。岡山営業所長は「火焔(かえん)に取巻かれ退路を失い」「四十人位の人々と泥水にまみれ九死に一生を得たり」と当時の様子を記している。部下の消息がつかめない状況なども報告されている。

 また、保険金の戦災支払いについて、他社はすでに支払いを始めているとして、自分に支払いの権限を与えるか、広島出張所か本店から権限者を出張させるように求めている。

 同ミュージアム岡山空襲展示室の猪原千恵学芸員は「空襲の様子や当時の企業の対応が生々しく伝わってくる貴重な資料」と評価。空襲警報がなかった理由を「防空監視哨という敵機の来襲を察知・報告し、住人避難などを促す最前線の施設が牛窓にあった。岡山空襲の際、大阪の中部軍管区司令部にいち早く報告したが、司令部が『岡山への空襲はない』と警報を発令しなかった」と説明した。

 同ミュージアムは、空襲の悲惨さや復興までの歩みを知ってもらおうと、昭和53年から毎年、写真展を開催しており、今回で38回目。空襲後、焼け野原となった市街地や戦後の闇市の写真のほか、空襲で使われた焼夷弾(しょういだん)の実物など約400点が展示されている。

 岡山空襲から3年後のパノラマ写真も展示され、焼け野原だった場所に多くの建物が立ち並び、「非常に早い復興」(猪原学芸員)の様子がうかがえる。猪原学芸員は「空襲で大変な経験をした人々の記憶に触れ、今の平和な岡山を築いた軌跡を感じ取ってほしい」と話している。

 29日を除く月曜休館。入場無料。問い合わせは岡山空襲展示室(電)086・253・7070。