宇喜多秀家自筆と伝わる和歌初公開 岡山・光珍寺で慰霊法要
岡山城を築城した戦国大名、宇喜多秀家の命日の20日、菩提寺の光珍寺(岡山市北区)で没後360年の慰霊法要が営まれ、参列者ら約30人が宇喜多家と家臣の遺徳をしのんだ。法要後には今年5月、同寺が入手した宇喜多秀家自筆の和歌と伝えられる短冊2枚が初めて公開された。
宇喜多秀家は豊臣秀吉の五大老の一人で、岡山の街づくりの礎を築き、備前宰相と呼ばれた。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の副将となり、敗れ、1606年に八丈島に流された。法要では、比叡山延暦寺の藤波源信大阿闍梨が読経し、参列者が焼香して秀家らの霊を弔った。
公開された和歌は「御菩提のたねや植けん此寺にみのりの秋そ久しかるへき」など。八丈島の宗福寺で、流刑にあった平安時代の武将、源為朝の血筋が続いていることを聞いて感動し、自らの子孫も永続することを願って詠まれた。
真庭市教育委員会の森俊弘主幹がインターネットオークションに出品されているのを発見。森主幹は「秀家の自筆の資料は少ない。(和歌の)真偽はともかく、八丈島に江戸時代から伝わる和歌が岡山にあるのは貴重だ」と解説した。
短冊を調査した県立博物館の内池英樹主幹は「八丈島に流されたことへの恨み辛みの歌ではなく、ユーモアや子孫を思いやる気持ちが表れている朗らかな歌でよかった」と話した。
同寺の石渡隆純住職は「落札できたことにご縁を感じる。岡山の礎を作った秀家公の八丈島での心境を知ってもらえたのでは」と話していた。
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東京・八丈島で宇喜多秀家鎮魂祭
岡山城を築いた戦国大名・宇喜多秀家(1572-1655年)の命日の20日、最期を迎えた東京・八丈島で地元住民による「鎮魂祭」が開かれた。今年は没後360年に当たり、伝統の舞を繰り広げたほか、初の試みとしてゆかりのある松の周りにろうそくをともし、冥福を祈った。
秀家は関ケ原の戦い(1600年)に敗れて流刑となり、亡くなるまで半世紀近くを八丈島で暮らした。島の中部にある墓前に住民や観光客らが次々に集まり、線香を上げて手を合わせた。
墓に近い住居跡では、ラベルに秀家のイラストをデザインした岡山の地酒や、加賀藩祖前田利家の四女で島に生活物資を送り続けた妻・豪姫の古里である金沢の新米を供え、樫立(かしたて)踊り保存会メンバー15人が供養の舞を披露。夕暮れからは、秀家が植えたとされる「久福松」にちなんで植樹された5本の松の周辺をろうそくやトーチでライトアップし、追悼ムードを高めた。
観光で訪れた赤磐市の自営業女性(55)は「流刑の大名を受け入れた島民のおおらかさ、温かさを感じた。秀家はこの地で慕われ、人生を全うしたのでしょう」と感慨深そう。
同保存会の佐々木豊茂会長(78)は「秀家と豪姫を中心に住民の結び付きが強まり、岡山、金沢などゆかりのまちとの絆も深まっている。素晴らしいこと」と話していた。
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宇喜多秀家作か、短冊を初公開
宇喜多家の菩提(ぼだい)寺・光珍寺(岡山市北区磨屋町)で20日、宇喜多秀家の没後360年の法要が営まれ、流刑地の八丈島で自作の和歌をしたためたと伝えられる短冊が初公開された。
短冊は、平安時代に流された武将源為朝の子孫が島に存続していることへの驚きを詠じたものと、親交のあった島内の宗福寺住職のことをユニークに詠んだ2点。いずれも流れるような文字で書かれ、後に加えられたと思われる詞書(ことばがき)を添えて軸装されている。
この日、掛け軸は本堂に展示。真庭市教委主幹で宇喜多家史談会理事の森俊弘さんと県立博物館主幹の内池英樹さんが「秀家の心穏やかな晩年を物語る貴重な発見」などと解説し、訪れた市民らが興味深そうに見入っていた。
宗福寺に秀家ゆかりの品として伝わりながら所在不明となり、今年5月にネットオークションに出品されていたのを森さんが発見。光珍寺が落札した。
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<慰霊法要>没後360年、秀家しのぶ 直筆か、和歌詠草も初公開 北区・光珍寺 /岡山
岡山市の礎を築いたとされる宇喜多秀家の没後360年の節目の20日、父の直家らと共に弔う慰霊法要が宇喜多家の菩提(ぼだい)寺、光珍寺(北区磨屋町、石渡隆純住職)であった。秀家が流刑によって最期を迎えた八丈島(東京都)で詠んだ和歌が直筆で記された可能性があるという詠草が今年見つかり、この日、初公開された。
秀家の父、直家は戦国大名として備前国やその周辺を統一。秀家は「五大老」の1人として豊臣秀吉に仕え、岡山城の築城と城下町の整備にも尽力した。関ケ原の戦いに西軍の副将として参戦したが敗北し、その後、八丈島に流された。
法要には歴史愛好家ら約50人が参列。比叡山延暦寺の千日回峰行を達成した大阿闍梨(だいあじゃり)、藤波源信さん(56)や石渡住職ら3人が読経し、参列者は焼香して手を合わせた。
この日、公開された詠草には2首の短歌が記され、このうち、「御菩提(ぼだい)のたねや植(うえ)けん此(この)寺にみのりの秋ぞ久しかるべき」は、伊豆大島に流された平安時代後期の武将・源為朝の血筋が続いていることを聞いて感動し、宇喜多家の永続を祝って詠んだものとみられるという。もう1首は「綿ぼうしさわらば落(おち)ん禿(はげ)あたまさぞ寒からめ西の山風」で、島内にあった寺の住職のことを詠んだとみられる。
詠草は今年5月にインターネットオークションに出品されているのが分かり、寺が落札した。解説した県立博物館主幹の内池英樹さん(43)は「自筆かどうかは今後の調査次第。360年を超えて寺が保持したことを評価したい」と話した。
詠草は、県立博物館(北区)で来年3月、新たに確認された直家の書状などと一緒に公開される予定。法要に参列した南区箕島の木梨厚忠さん(71)は「秀家らに思いをはせてじんときた。今後の研究に役立つのでは」。石渡住職は「記念の年にご縁があってうれしい。岡山にあるのは意義深いので、多くの人に見てもらいたい」と話している。
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