大河ドラマ「真田丸」 第48回 紀行 岡山城 紹介される 


大河ドラマ「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねてみては  岡山城


1582(天正10)年4月4日、秀吉は中国攻めのために岡山城に入った。城主は、二代目宇喜田秀家。そして、高松城主:清水宗治の説得を試みるが、宗治は応じなかったため、黒田官兵衛の提案で高松城の水攻めに踏み切った。

宇喜田秀家が、1597(慶長2)年に築城した。
 第二次大戦で消失しましたが、1966(昭和41)年に再建されました。

大河ドラマ「真田丸」 第48回 紀行

明石掃部介守重(あかしかもんのすけもりしげ)宅跡

明石 全登/景盛/守重(あかし たけのり/かげもり/もりしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は複数伝わり、定かではないが、「明石全登」の名が一番有名。全登は法号で「ぜんとう」と読むとする説もある。通称は掃部(かもん)で、明石掃部とも言う。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンであった。

慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると信仰上の問題で豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。

その後の消息は不明である。『徳川実記』『土屋知貞私記』『石川家中留書』など[19]徳川方の複数の家伝が全登はこの戦いで討ち取られたとし、『大坂御陣覚書』『大坂記』は水野勝成家臣の汀三右衛門が首を獲ったとし、『石川家中留書』では石川忠総がその手で討ち取り、全登が豊臣秀頼から賜った吉光の短刀も分捕ったとする。このように幾つかの史料は戦死説をとるが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、『大村家譜』『山本豊久私記』など幾つかは嫡子内記と共に九州に、また『戸川家譜』『武家事紀』には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あって判然としない。もし南蛮へ渡ったとすればイエズス会文書などで特筆されるはずだが、全登の消息は記されていない事から南蛮逃亡説は空想の産物であろうとされている。

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岡山県岡山市・岡山県備前市 岡山城・明石掃部介守重(あかしかもんのすけもりしげ)宅跡


岡山 闇夜に浮かぶ秋の岡山城「秋の烏城灯源郷」と後楽園 「秋の幻想庭園」
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(大河ドラマ「真田丸」 第48回 紀行 岡山城)
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(大河ドラマ「真田丸」 第48回 紀行 岡山城)


岡山城 鏡
(大河ドラマ「真田丸」 第48回 紀行 岡山城)
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