明治の文豪・夏目漱石 と 岡山   (生誕 150周年へ) 夏目漱石は一ヶ月ほど岡山県へ滞在した
 
メモ  (夏目漱石ゆかり 岡山中心街  を歩こう)
漱石と岡山観光(後楽園や岡山城の天守閣を楽しみ・・・)、岡山で洪水に遭遇!大事件勃発(親友の正岡子規が・・)!!

夏目漱石ゆかりの地(写真は岡山市にある歌碑)
来訪日:1892年
職業:教師、作家
ゆかり:親族のお祝いの為に逗留した
スポット:石碑、宿泊先、観光した場所(※宿泊先は岸本家以外現存せず)
 
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明治の文豪・夏目漱石が、旧制第… 

明治の文豪・夏目漱石が、旧制第五高等学校(現・熊本大)の英語教師として赴任したのが1896年4月13日だ。小説「坊っちゃん」で知られる松山市を後にし、熊本市の現JR上熊本駅に降り立った▼それから120年を経た13日、「お帰りなさい漱石祭」と銘打った記念イベントが駅前で開かれた。口ひげを蓄えた漱石役が、人力車に乗り込みパレードした▼お祝いムードもさめやらぬ翌日、熊本地方は震度7の激しい地震に見舞われた。一夜明けてきのう、被害の全容が浮かび上がった。多数の死傷者、石垣や瓦が崩れた熊本城の姿が痛々しい。漱石が教鞭(べん)をとった校舎でも、赤れんが造りの建物の煙突が破損したという▼漱石着任の年に入学したのが、物理学者の寺田寅彦だ。それが縁で、後に漱石門下の随筆家として名をはせる。漱石の「吾輩は猫である」に登場する学者・水島寒月のモデルは寺田だといわれる▼熊本地方では過去にしばしば震度4以上の地震が起きている。漱石赴任の7年前には死者20人の大被害が出た▼それでも地元の人らは「大きな地震はないと思っていた」。日本が世界有数の地震列島と分かっていても、わが事とはなかなか思えない。寺田が語ったとされる、あのせりふがまた思い浮かぶ。「天災は忘れたころにやってくる」。警句はいつまでも色あせない。


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<鳴くならば満月になけほととぎす>


 <鳴くならば満月になけほととぎす>。明治期の1892年夏、帝国大学の学生だった夏目漱石が岡山で詠んだ句だ。落第した親友の正岡子規にあてて泣くのは卒業する時にせよと励ます▼今春出版された岡山県内田百けん文学賞受賞作品集を読んだ。最優秀賞の三ツ木茂さん(67)=岡山市=の短編小説「漱石の忘れもん」は、子規の帰省先の松山へ向かう途中、岡山の親戚宅に立ち寄った事実をもとにしている。そこで後に門下生となる幼少期の内田百けんに偶然出会う物語だ▼小説の舞台で、岡山市街地と海の玄関口・三蟠港を結ぶ「三蟠街道」の描写が印象的だ。山陽線は開通したばかりで船便がまだ活発な時代。旅客や人力車の往来が盛んだった▼川では今はあまり見なくなったシジミやウナギが捕れ、漁師の家が並ぶ。小説を通して100年以上前の郷土の自然や人の営みが鮮やかによみがえる▼「岡山には何と魅力的な物語の舞台が数々あることか」。文学賞審査員の一人、作家の小川洋子さんは、他の受賞3編と合わせて評している▼岡山市で生まれた百けんは、自宅に近い旭川を後の師匠と同じ時期に眺めていたに違いない。漱石を敬愛し、原稿についた鼻毛まで大事に保管した百けん。小説での二人の遭遇は虚構だが、現実ならさぞ喜んだろう。想像するだけで楽しい。きょうは百けん忌。   
2015年04月20日

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岡山 夏目漱石 散歩 メモ
 =夏目漱石と岡山=
 京橋の近くに整備された旭川沿いの遊歩道を歩いていると、『夏目漱石岡山逗留の地』という石碑が見つかります。
 県民でも余り知らないこの石碑が告げるように、夏目漱石は一ヶ月ほど岡山県へ滞在した事があるのです。
●夏目漱石の岡山を歩く
 今週は「夏目漱石の岡山を歩く」を掲載します。夏目漱石は東京帝大の暑中休暇を利用して京都から堺、大阪、岡山を巡っています(途中まで子規が同道)。

<漱石の岡山>  明治二十五年の初夏、東京帝大の暑中休暇を利用して、漱石は岡山を訪ねています。山陽本線(当時は私鉄の山陽鉄道、東京から神戸までは官営鉄道)が岡山まで開通したのは明治24年3月です。それまでは神戸から船で岡山だったとおもいます。夏目漱石も新しい鉄道に乗りたかったのではないでしょうか?。夏目漱石は岡山在住時に正岡子規からの書状(東京帝国大学を落第した)の返事を書いています。
「 貴地十七日発の書状正に落手拝諦仕候
 先は炎暑の候御清適奉賀候 中子来岡以来愈壮健、日々見物と飲食と昼寝とに忙がほしく取紛れ打ち暮し居候
 去る十六日当地より金田と申す田舎へ参り二泊の上今朝帰岡仕候 閑谷黌見物へは末だ参らず、後楽園天守閣等は諸所見物仕候 当家は 旭川に臨み 前に三擢山を控へ東南に京橋を望み、夜に入れば河原の掛茶屋無数の紅燈を点じ、納涼の小舟三々五々橋下を往来し、燭火清流に徹して宛然たる不夜城なり。君と同遊せぎりしは返す返す残念なり 今一度閑谷見物かたがた御来岡ありては如何、一向平気にて遠慮なき家なり 試験の成績面黒き結果と相成候由、鳥に化して跡を晦ますには好都合なれども、文学士の称号を頂戴するには不都合千万なり 君の事だから、今二年辛抱し玉へと云はば、なに鳥になるのが勝手だと云ふかも知れぬが、先づ小子の考へにてはつまらなくても、何でも卒業するのが上分別と存候 願くは今言心案あらまほしう
 鳴くならば満月になけほととぎす
 徐は後便にゆづる  乱筆御免
  十九日午後     平 凸凹
獺察詞兄
      尊下」。
 東京帝大を落第した子規を漱石は慰め、後二年辛抱して卒業するように説得しています。
 上記に書いている”平 凸凹”とは!!、余りに有名なので私が説明する必要があるかとおもったのですが、なかなか面白いので、あえて説明したいとおもいます。”平 凸凹”は夏目漱石のペンネームといって良いでしょう。ユーモアに溢れた名前です。
 又、閑谷黌、後楽園、天守閣、河原の掛茶屋も写真を掲載しておきます。
★写真の碑が”夏目漱石岡山逗留の地碑”です。碑の上にねこが置いてあります。岡山とねこは関係ないとおもうのですがどうでしょうか!
「岡山市内山下138」   
 <岡山市内山下町百三十八番地> 漱石が岡山で滞在したのは漱石の次兄直則氏の嫁であった小勝さんの実家(片岡家、岡山市内山下町百三十八番地)でした。次兄直則氏は明治20年(1887)6月に28歳で亡くなっており、奥様だった小勝さんは当然実家に戻られたわけです。お二人は次兄直則氏が東京から岡山電信局に転勤されたときに知り合われたようです。漱石はこの片岡家で大水害に遭遇しています。漱石の子規宛書簡からです。
「…帰寓して観れば、床は落ちて居る畳は濡れて居る壁は振い落してある、いやはや目も当てられぬ次第。四斗樽の上へ三畳の畳を並べ、之を客間兼寝処となし、戸棚の浮き出したるを次の間の中央に据へ、其前後左右に腰掛と破れ机を併べ是を食堂となす.屋中を歩行する事峡中を行くが如し。一歩を誤てば橡の下に落つ。いやはや丸で古寺か妖怪屋敷と云ふも猶形容し難かり。夫でも五日が一週間となるに従ひ、此野蛮の境遇になれて左のみ苦とも思はず。可笑しき者なり。実は一時避難の為め、君の所へでも罷り出んと存居候ひしが、旅行中で留守にでも過ったら困ると息ひ今迄差し控へ居候。斯る場合に当方に厄介に相成候も気の毒故、先日より帰京せんと致候処、今少し落付く迄是非逗留の上緩々帰宅せよと強て抑留せられ候へども、此方にては先方へ気の毒、先方では此方へ気の毒、気の毒と気の毒のはち合せ、発矢面目玉をつぶすと云ふ訳、御憫笑可被下候。…」。
  ”気の毒と気の毒のはち合わせ”とは明治時代にしてはかっこ良すぎる表現です。現在でも使えますね。漱石はこうゆう現代風?の言い回しが上手です。
★写真右側に少し写っているのが”夏目漱石岡山逗留の地”碑なのですが、この付近より京橋よりの所が岡山市内山下町百三十八番地だったとおもわれます。古い地番が書かれた地図を探したのですが正確な地図が有りませんでした。
A :岡山 後楽園 岡山県庁 京橋 周辺 と 夏目漱石 B:岸本邸 周辺
 AB
A  [後楽園天守閣等は諸所見物仕候] 後楽園 見学B 「西大寺金田一八三五番地」
夏目漱石年表 
和 暦
西暦
年  表
年齢
夏目漱石の足跡
明治23年
1980
帝国ホテル開業
23
9月 帝国大学文科大学英文学科に入学
明治24年
1981
大津事件
東北本線全通
24
3月 三男直矩の妻登世が死去
明治25年
1892
東京日日新聞(現毎日新聞)創刊
25
4月 本籍を北海道岩内に転籍
7月 正岡子規と京都、大阪、岡山、松山を訪ねる
8月 岡山で水害に会う
明治26年
1893
 
26
7月 帝国大学文科大学英文学科卒業
明治27年
1894
東学党の乱
日清戦争
27
10月 小石川の法蔵院に転居
明治28年
1895
日清講和条約
三国干渉
28
3月 山口高等中学校の就職を断る
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年
1896
アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29
1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、結婚
9月 熊本市合羽町二三七(現坪井2丁目)に転居
明治33年
1900
義和団事件
33
9月 漱石ロンドンへ出発

<岸本邸>

「西大寺金田一八三五番地」
 小勝さんは再婚しており、漱石は再婚先の岡山市金田の岸本家も訪ねています。江藤淳の「漱石とその時代」からです。
「七月十六日から三日間、金之助は白井亀太郎と連れ立って、金田村に岸本庄平という医師をたずねた。岸本はかつての嫂かつが再縁した先である。岸本は児島湾に釣り船を出して二人を歓待した。十九日にふたたび岡山に戻った金之助は、落第を報じた正岡の手紙に接した。その日のうちに彼は返書を書いている。…」。
 現在でも水田に囲まれた田舎なのですが、当時はもっと凄い田舎だったとおもいます。こんなところにお医者様がよく開業したなとおもいます。

★写真は西大寺金田の岸本邸跡です。現在は何方も住んでいないようです。売家の看板が出でおりました。農家でない限りこの付近では家を買われる方はいないではないでしょうか。車がないと全く動けない場所でした。
「九蟠海岸」

<九蟠海岸>
 漱石は岡山市金田の岸本家でも歓待を受けたようで、近くの海岸にも遊びにいっています。「岡山文学風土記」からです。
「…三泊の間、十八日には蛤かきを持って越中祥一つで近くの九蟠海岸に出かけ、一〇個ばかりの蛤を掘り出した。入れ物がないので、それを越中棒に包んで村道を帰ったという。そして七月十九日には岡山の片岡家へ帰っている。…」
 ”蛤かき”とは一瞬、牡蠣の仲間のことかとおもったら、蛤をとる道具のことでした。

★写真の辺り一帯が九蟠海岸なのですが、漱石はこの付近で蛤を取ったのでしょうか!、この付近は吉井川下流で、児島湾との接点になっています。現在は堤防?、防波堤?が出来ています。
<旧岡山県庁>

岡山県立美術館
 明治25年7月19日には金田の岸本家から岡山市内の片岡家に戻ります。四日後の23日になると、岡山地方は大雨になります。片岡家は旭川の右岸すぐ横であり、旭川の氾濫により床上浸水となってしまいます。江藤淳の「漱石とその時代、第一部」からです。
「……七月二十三日から二十四日にかけて、岡山地方に大雨が降り、旭川の水が氾濫して河畔にある片岡家でも浸水が床上五尺に及んだ。これはこの地方でも未曽有の大洪水で、県下の死者は七十四人、流失破損家屋は五千五百余戸にのぼったという。
 水が出はじめると、金之助はひと声「大変だ」と叫んで自分の本のはいった小さな柳行李をかつぎ、県庁のある小高い丘にひとりでいちはやく難を避けた。…」。
 漱石は床上浸水した片岡家から逃げ出しています。この付近で高台なのは岡山城と旧県庁付近なので、自然と避難場所は旧県庁となるわげです。

★写真の正面やや左にある岡山県立美術館のところが旧岡山県庁所在地です。写真撮影場所が丘の頂上で、ここから先は下っています。後ろ側は登ってきているわけです。現在の県庁は少し南に下った内山下二丁目に移っています。
 
「光藤家離れ座敷跡」

<光藤家離れ座敷>
 漱石は県庁手前の丘の上で一夜を過ごし、片岡家と親しい光藤宅にやっかいになります。この付近は浸水は大丈夫だったのでしょうか。江藤淳の「漱石とその時代、第一部」からです。
「…金之助は丘の上で一夜を明し、二十五日から片岡家と親交のある財産家光藤亀吉の離れ座敷に厄介になった。…」
 片岡家から岡山県庁手前の丘の上まで、約1Km、丘の上から光藤宅まで240mの距離です。

★写真正面やや右辺りが光藤宅離れ座敷の所在地です。この場は「永井荷風の岡山を歩く」で登場しています。光藤宅離れ座敷の左隣が弓之町松月旅館となります。光藤宅離れは弓之町百二十六番地となります。昭和20年6月の空襲で松月旅館と光藤宅離れ座敷は焼失しています。

明治25年8月4日は漱石はまだ岡山に滞在していました。その後、子規の居る松山に向かいます。

参考
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詳細
夏目漱石ゆかりの地(写真は岡山市にある歌碑)
来訪日:1892年
職業:教師、作家
ゆかり:親族のお祝いの為に逗留した
スポット:石碑、宿泊先、観光した場所(※宿泊先は岸本家以外現存せず)

参考文献:岡山の夏目金之助(漱石)―岡山逗留と愛弟子廉孫 (岡山文庫) 
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夏目漱石と岡山
 京橋の近くに整備された旭川沿いの遊歩道を歩いていると、『夏目漱石岡山逗留の地』という石碑が見つかります。
 県民でも余り知らないこの石碑が告げるように、夏目漱石は一ヶ月ほど岡山県へ滞在した事があるのです。

 岡山県に住む親戚に慶事が重なったので、夏目家を代表して夏目漱石が岡山を訪れる事になったのです。
 慶事は夏目漱石のお亡くなりになった兄の妻だった小勝さんの再婚です。

 そして小勝の実弟である臼井亀太郎の婚約も重なっていたのです。
登場人物一覧
 この辺りの流れはちょっとややこしいので、登場する人物を整理しておきます。
■ 臼井直則(漱石の兄)
 夏目漱石の実の兄ですが、臼井家という家を継いだ為に『臼井直則』と言います。
 臼井家は夏目漱石のひいひいお祖父さんが、子供のいなかった夏目家へ養子として入ったという、つながりの深い家系です。
 ただしこの方は早世されており、夏目漱石が岡山を訪れた際は故人でした。
■ 岸本小勝(漱石の兄嫁、臼井直則の未亡人)
 岸本小勝は、亡くなった臼井直則の未亡人です。
 臼井直則が存命中には夏目家で暮らしていました。
 しかし、夫である臼井直則の死去に伴って実家の片岡家へ復籍しました。そして再婚するのに伴い、岸本姓になりました。
■ 臼井亀太郎(岸本小勝の弟)
 婚約をしたという臼井亀太郎は、小勝の実の弟です。
 元々は小勝の旧姓である『片岡亀太郎』でしたが、直則が逝去した後に臼井家を継ぐ事になって臼井家の養子となっています。

 臼井直則が存命中には、直則、小勝と共に夏目家で暮らしていました。
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漱石と岡山観光
 夏目漱石は途中まで親友の正岡子規と京都見物をして来岡しました。
 岡山へは船で訪れ、着いたのは三蟠の港です。
 最初に訪れたのは小勝と亀太郎の実家である片岡家で、場所は現在の京橋の周辺、先述の石碑がある辺りだったそうです。
 後楽園や岡山城の天守閣を楽しみ、京橋の下を納涼舟で楽しんだそうで、周辺を不夜城のようだったとしています。
 そして小勝の再婚先である岸本家(岡山市東区西大寺金田)へも挨拶に訪れます。
 現在の感覚で言えば、岸本家と夏目家は他人といってもいいような感じがするのですが、記録によるとかなりの歓待を受けています。
 児島湾へテント張りの船で漕ぎ出し、釣ったばかりの魚を楽しんだとか。
 贋金作りで知られる『勘三郎の穴』も楽しんだそうです。
 この地ではハマグリを沢山採ったものの容器が無かったので褌に来るんで持って帰ったという武勇伝も残されています。

洪水に遭遇!
 その後、片岡家へ戻りますが、死者47名も出す事態となった大洪水に遭遇します。
 片岡家も五尺(約150cm)も浸水するという被害に遭っていますが、本が入った柳行李(旅行用の鞄のようなもの)を持って脱出、当時の県庁…現在の天神プラザがある小高くなっている辺りへ避難しました。
 そして岡山の実業家である光藤亀吉の家の離れへ避難させてもらうことになり、一週間ほどをすごしています。
 ここは夏目漱石の避難した場所として、光藤家が保存していましたが戦災で焼失しました。
 場所は岡山東税務署周辺だったそうです。(岡山文庫『岡山の夏目金之助』参考)
大事件勃発!!
 親友である正岡子規が落第し、退学する意向を綴った手紙を受け取ったのも、この岡山での出来事です。
 洪水に、親友の退学…。
 岡山での逗留は一ヶ月にも及ぶと言うのに、余り自身の筆による記録が残されていないのは、もしかすると滞在の楽しい記憶も飛んでしまうほどの衝撃を二つも経験してしまったからなのかもしれません。
 ところでこの時に夏目漱石さんは退学を翻意してもらおうと『鳴くならば 満月になけ ほとゝぎす』という句を含んだ手紙を送っています。
 そして一ヶ月の逗留の後、正岡子規さんのいる松山へと向い、岡山での滞在を終えたのでした。
謝辞:このページを作成するのに、岡山文庫『岡山の夏目金之助(漱石)―岡山逗留と愛弟子廉孫 (岡山文庫)』を参考にさせて頂き、著者のお一人である横山俊之様からはご丁寧なメールまで頂きました。
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夏目漱石が岡山に滞在した時期と訪問先を知りたい。

資料①『西大寺つれづれ』によると、夏目漱石が岡山に滞在したのは、明治25年の夏で、当時既に亡くなっていた次兄栄之助の元妻小勝の実家片岡家を訪問したものだった。片岡家は岡山市北区内山下138番地にあり現在の岡山県庁舎の南あたりと思われる。この時、小勝は新たに上道郡金田村(現岡山市東区金田)の岸本昌平に嫁いでいたので、漱石は再婚祝を持って小勝の実弟亀太郎とともに、7月16日から岸本家を訪ねている。ここでは、厚いもてなしを受けており、岡山市東区九蟠のあたりで楽しんだことも伝わっている。7月19日には再び片岡家へ戻るが、その4日後、岡山は大洪水に見舞われる。旭川の氾濫により片岡家も被害を受け、この時、漱石は亀太郎の友人光藤亀吉の別荘に避難し、一週間ばかり過ごした。 資料②『岡山ゆかりの作家たち』によると、光藤亀吉宅の別荘は岡山市北区上之町にあったようで、漱石が避難した部屋は長く保存されていたらしい。資料③『岡山繁盛記』には、光藤亀吉が語る夏目漱石の思い出が掲載されている。漱石の岡山滞在は、友人正岡子規に宛てた7月19日と8月4日の手紙から知ることができ、資料①には7月19日の手紙の一部が、資料③には8月14日の手紙が掲載されている。
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