文豪・谷崎の迷惑行動に「閉口」 岡山 津山


 第2次世界大戦末期の1945年に津山市内に54日間疎開していた谷崎潤一郎(1886〜1965年)の様子を記した備忘録が残されていることが分かった。谷崎の気まぐれな行動に、世話する側が右往左往するありさまが明記されるなど、文豪が津山で暮らした一端がうかがえる。 津山藩松平家の遠縁に当たる谷崎は、松平家が現在の同市小田中に所有していた愛山東照宮敷地内の屋敷「宕々庵(とうとうあん)」に滞在。45年5月15日から7月7日まで身を寄せ、その後、名作「細雪」を執筆した真庭市勝山へ移った。 当時の様子は谷崎自身が「疎開日記」に著しているが、受け入れ側が津山でのことを書いた物は珍しいとみられる。松平家の屋敷などを管理していた得能静男さん(52年没)が記し、孫の良平さん(69)=津山市=が詳しく読み込んで内容が判明した。 備忘録には、疎開の依頼状が得能さんに届いた3月31日に初めて谷崎の名が登場。その後、谷崎や女中ら一行が5月16日の予定を1日早めて同15日に到着したことに「谷崎一家族五名突然午后二時三十分来宅」と驚き、「来客ノ為メ特ニ風呂ノ湯ヲ沸カシ馳走トナス」とある。その時の様子は疎開日記にもあり、14日に急な予定変更をしたが、ご飯や缶詰、漬物などの食事に「得能家心づくし」と感謝している。 岡山空襲があった6月29日には谷崎の迷惑な行動に困惑した記述も出てくる。「勝山行荷物前二時受取ニ来ル 以后睡眠出来ス閉口」と未明に荷物を取りに来たことを記した。 7月7日に宕々庵を出た後も、谷崎が荷物の受け取りなどでたびたび津山を訪れ、得能さんの世話になっていたことが確認できる。 備忘録には、戦渦に巻き込まれていく当時の姿も刻まれている。6月30日には岡山空襲に触れ「被害甚大 三十日付合同新聞不着」と記録。7月5日は「市民米機ノ襲来ニ恐怖 甚大空前絶後(中略)大国難到来」とつづった。 良平さんは「小まめに書き残してくれたからこそ、谷崎の疎開時の一日一日や戦時中の混乱ぶりが感じられる」と話した。